電子工学の父 『ロケット・ササキ』
2019年が始まって間もないですが、『電子工学の父』と言われたシャープの元副社長、佐々木正氏がお亡くなりになられて、もうすぐ1年が立とうとしてます。
2018年1月31日に102歳でご逝去なされましたが、改めて冥福をお祈りすると共に、佐々木氏の事跡を振り返りたいと思います。
- 電子工学の父 『ロケット・ササキ』
- 幼少期を台湾で過ごしたバイリンガル
- 大戦中はレーダーを研究 終戦後に請われてシャープへ
- ロケットササキと『電卓戦争』
- 技術だけでなく人も残す
- 50年前に未来を見つめた佐々木が見つめる未来
シャープの元副社長、佐々木正(1981年撮影)PHOTO: TOYO KEIZAI/AFLO
幼少期を台湾で過ごしたバイリンガル
後のシャープの副社長にもなられた佐々木氏(以下敬称略)は、1915年(大正4年)に島根県で生まれ、小学校から高校までは台湾で育ちました。
子供の頃の海外生活が、後の佐々木に自由な発想と、国籍に囚われない人脈を与えた、と言われています。
また、台湾時代に高校の卒業研究として、リンゴとマンゴーの接木による品種改良を行っていました。
この話が元で、『日本で栽培されているアップルマンゴーは佐々木が開発した』という風説があります。残念ながら現在の日本のアップルマンゴーは、アメリカで品種改良された後に日本に伝えられたものだそうです。
ただし、佐々木は後に、この研究(まったく違う品種を掛け合わせて新しい品種を作る)の成果に強い意義を見出しており、後年の価値観に異なる物同士が新しい価値を生み出す『共創』の精神を置いています。
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大戦中はレーダーを研究 終戦後に請われてシャープへ
大学は京都帝国大学(現在の京都大学)に進学し、卒業後は川西機械製作所(現在のデンソーテン)に入社しました。
しかし、世界が第二次世界大戦の影に覆われた時には、佐々木は社命を受けてドイツへレーダー技術を学ぶために赴きました。戦争の激化によって日本に戻れなくなると、帰りはUボートで帰ってきたのだそうです。
大戦後は、GHQの命令でアメリカのベル研究所で通信技術を学びました。
帰国後は早川電気工業へ入社しました。この早川電気工業こそ、後に世界的企業へ成長する現『SHARP』です。
ロケットササキと『電卓戦争』
当時のシャープはライバルのカシオと、電卓部門で激しいシェア争いを繰り広げていました。
佐々木は技術部門のの責任者として、シャープの陣頭指揮を取る中で、渡米して得た知識を遺憾なく発揮します。
共同開発を続けるアメリカの研究者から『君のアイデアと実行力のスピードはジェット機でも追い付かない。君はロケットだ』と評されたそうです。
佐々木の『ロケットササキ』はこのエピソードが元です。
ライバルのカシオ電機との競争の末、佐々木がシャープに入社した当初は40センチ四方、25kgほどあった電卓が、なんと胸ポケットサイズでソーラーパネルまでついた小型で省電力のものへ進化していったのです。
後に『電卓戦争』と呼ばれ、最盛期には海外も含めて50社以上が参入し、最終的には日本の数社しか残らなかったといわれる技術戦争は、のちにシャープと日本に大きな財産を残します。
まず、ポケットコンピューターの原型とも言うべき小型電卓は、小型化の過程でICチップの大量な需要を喚起しました。
その結果、日本の半導体技術は飛躍的に上昇し、のちの世界的なコンピューター需要に伴って、日本の半導体産業を世界をリードする存在にまで押し上げます。
そして、シャープが得たものは『液晶』と『太陽光』技術でした。
あくまで薄型のポケットサイズに拘ったシャープは、表示装置に当時主流だったLEDから、より薄型になる液晶パネルの採用を決断します。
この時に開発された技術が、後にビデオカメラ『液晶ビューカム』を経て、薄型テレビの基幹技術として花開きます。
また、薄型にするために電池を少なくしなければなりませんので、省電力化のためにソーラーパネルを採用しました。この技術は、現在も建物向け太陽光パネルに生かされています。
佐々木が戦い抜いた『電卓戦争』は、後のシャープを世界的メーカーに押し上げるための、大きな遺産を残していったのです。
この『電卓戦争』については、佐々木の事跡を中心に、日本が電子立国へと駆け上っていった歴史を克明に記す名著『ロケット・ササキ』(大西康之著)がお勧めです。
伝説の技術者の生き様と、日本が戦後、いかにして技術大国へと成長したのかが、とても爽快かつリアルに描かれているノンフィクションです。

ロケット・ササキ:ジョブズが憧れた伝説のエンジニア・佐々木正
- 作者: 大西康之
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2016/05/18
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技術だけでなく人も残す
苛烈な『電卓戦争』を勝ち抜いた前線指揮官。
シャープを世界的企業に押し上げた立役者。
技術的な面で大きな足跡を、日本の産業界に残した佐々木ですが、彼の慧眼は技術的な部分に留まりません。
現在、通信業界の革命児として、立志伝中の人物として語られるソフトバンクの孫正義氏。
彼がまだ無名だった頃、彼の技術を買い上げ、銀行の融資を後押ししたのは佐々木だったのです。
若き日の孫正義は、自動翻訳機を作って大手メーカーに売り込みを掛けましたが、ケンモホロロ、冷たい対応を受けたのだそうです。
そこで最後に旧知の間柄であった佐々木を尋ねたところ、孫に資金提供をし、銀行側に融資条件が有利になるよう取り計らった、と言われています。
また、マッキントッシュの成功後、業績の悪化に伴い自身が創業した『アップル』を追放されたスティーブン・ジョブスは、新しいビジネスを考えて佐々木の下を訪れました。
そこで、佐々木からSONYの幹部を紹介した所、何年後かにアップルに復帰し、革新的な大ヒット商品『IPOD』を世に送り出します。
ただし、韓国勢が液晶や半導体などの技術を欲しがった時、周囲の反対を押し切って技術提供を決断しました。
韓国勢によって日本の半導体産業や液晶産業が苦境に立たされた時、佐々木の事を『国賊』呼ばわりして批判する者もいたのだそうです。
しかし佐々木は、
『日本が負けたのは、技術革新を怠ったからだ』
『技術者は会社のために働くのではない。国のためでもない。人類の進歩のために働くのだ』
と意に介しませんでした。
佐々木が後の世に影響を与えたのは、技術だけでなく、技術を生かす『人』でした。
50年前に未来を見つめた佐々木が見つめる未来
シャープで初めて電卓を完成させた際に、更なる小型化を目指して技術を研究していくうちに、佐々木はLSI(集積回路)に出会います。
LSIの資料を見た佐々木は開口一番、
『これは、面白い。これはいずれチップになって人間の脳に埋め込まれるかもしれない』
と呟いたそうです。
まだ集積回路の夜明けとでもいうべき時代にそれを聞いた人は、宇宙人に出会ったかのような衝撃を覚えたそうです。
が、現在のアメリカでは脳や体内にマイクロチップを埋め込む『ブレインチップ』が盛んに研究され、徐々に成果が出ています。
そして、晩年の佐々木は雑誌などのインタビューに、『これからは人間のカンや第六巻とも言うべき場所にコンピューターがどんどん浸透していく』事を語っていました。
今後、晩年の佐々木が語っていたような未来が訪れるのでしょうか?
それは、未来の我々だけが知っている事なのかも知れません。