日本にお住まいの方は、ほとんどの方がこのマークをご存知だと思います。
個人用パソコンでお馴染みの『NEC(エヌ・イー・シー)』さんですね。
では、NECって何の略かはご存知ですか?
またどういう意味なのか、ご存知の方はどれだけいらっしゃるでしょうか?
※関係者の方は、もちろんご存知ですね(笑)
NECは『日本電気株式会社』(ニホンではなくニッポンです)が正式な会社名です。
英語表記で『Nippon Electric Campany(ニッポン・エレクトリック・カンパニー)』と表記していていました。
英語表記の頭文字が、いつのまにか会社名よりも浸透してしまった訳です。
まぁ子会社に『NEC〇〇』という会社を多く持っていますので、当然かもしれません。
そんなお話をしながら、今回は家電メーカーの社名の由来と沿革に関わるお話です。
日本電気株式会社 創業:1899年(明治32年)
さて、まずは冒頭のロゴでも紹介させていただきましたNECこと『日本電気株式会社』からです。
現在ではパソコンメーカーとしての認知度が高いかと思いますが、なんと創業は明治32年。
2019年で創業120年を迎える超老舗です。
経済史を学んでいた方でしたら、『日本初の合弁会社』として、ご存知の方もいらっしゃるのではないでしょうか?
創業者は発明王の仕事仲間
創業者は岩垂邦彦(いわだれくにひこ)氏です。
幕末に現在の福岡県に生まれ、維新後に設立された工部大学校電信科(現在の東京大学工学部)を卒業しました。
その後、単身渡米し、『エジソン・マシンワークス』に入社し、世界の発明王トーマス・エジソンの下で働きます。岩垂氏は、エジソンと共に働いた数少ない日本人なんです。
日本に帰国後は、電力会社の技師を務めた後、自身で会社を興します。
その後、米国の通信機器製造大手の『ウェスタン・エレクトリック社』の販売代理店として、WE社と共に『日本電気株式会社』を設立しました。
英語名の『エレクトリック』は、合弁先であるウェスタンエレクトリック社に由来するんですね。
設立が、米国の通信機器会社の国内総販売代理店だったため、NECは通信分野への拡張を続けていきます。
最初は電話局に収める交換機の納入が主な事業でしたが、昭和3年に技術者である丹羽保次郎氏によって、FAXの原型である通信機が発明され、写真電信の技術が発達します。丹羽氏はこの功績で、現在でも特許庁から『日本10大発明家』と評されています。
丹羽保次郎氏と発明した写真電送装置 :『NECの歩み』より
通信業から総合電機メーカーへ
その後、戦中は陸軍へ無線機を納入していましたが、戦後になるとパソコンや家電部門へ進出していき、総合電気メーカーへと変貌を遂げていきます。
1982年(昭和57年)に発売された個人向けパーソナルコンピューター『PC-9800』シリーズは長く国内市場のトップに君臨し、最盛期は国内市場のシェア90%以上を占有するなど、記録的ヒット商品になりました。
しかし、90年代以降は、国内競争の激化と海外勢の追い上げにより、国内シェアは徐々に低下します。パソコンのヒットによって、家電方面にも事業を広げていましたが、こちらは徐々に撤退していきました。
携帯電話は黎明期から開発を続けていましたが、スマートフォンの開発は早い段階で打ち切り、フューチャーフォン(ガラケー)縮小していきます。
一般消費向けから社会インフラ事業への転換
しかし、一般消費者向けは縮小の方向に進みましたが、代わりに社会インフラ面の事業は強化していきます。
戦後から続けていた衛星通信、パソコンの技術を生かしたスーパーコンピュータの開発、そして祖業である通信インフラ事業の新興国での展開。
現在では、国内コンシューマ(一般消費者向け)事業こそ縮小していますが、通信業を中核に、世界を股にかけて活動する電機メーカーへと躍進しています。
富士通株式会社 創業:1935年(昭和10年)
家電量販店のパソコンコーナーに足を踏み入れると、NEC製品と共に、富士通製品が並んでいるかと思います。
NECが誇るPC98シリーズには及ばないかもしれませんが、富士通もパーソナルコンピューター『FMーTOWNS』などをを擁しています。
80年~90年代にかけては、国内パーソナルコンピューター市場において、NECと熾烈なシェア争いを繰り広げていたのだそうです。
ちなみに私は90年代に両社を評して
『官公庁に強い富士通、一般企業に強いNEC』
『消費者向きの富士通、企業、機関向けのNEC』
と、三者三様の意見を耳にした事がありますが、結局正解はどれなんでしょうか?
それでは、NECに並ぶ国内パソコンメーカーの双璧、富士通株式会社の会社名の由来と、沿革をご紹介します。
名前の由来は頭文字 ドイツのジーメンス社と設立
創業は1935年となりますが、実は富士通の前身にあたる『富士電機製造株式会社』の設立は、1923年(大正12年)とこちらも、もうすぐ100年企業という老舗です。
日本電気株式会社に習った訳ではないでしょうが、富士通は元々、古河電気工業(現在の古河電工)とドイツのジーメンス社が共同で設立した合弁会社です。
富士、と名前がつくので富士山にでも関わりがあるのかと思いがちですが、実は古河電工の『ふ』と、ジーメンス社の『じ』を取って、『富士電機』と名付けられたのだそうです。
ただし漢字は当て字ですが、日本一の山だから、とか日本ではおめでたいイメージがある、と理由で採用されたらしく、まったく無関係という訳もなさそうです。
1935年に富士電工から分離した際に、社名の最後の『通』が付いて、『富士通信機製造株式会社』となりました。
現在は通称の『富士通』に商号変更しており、NECとは違って正式名称が『富士通株式会社』となっています。
通信機器から始まり現在はソリューションビジネスへ
元々は社名が示す通り、通信機器メーカーとして官公庁や電話会社へ通信機器を製造、納入する会社でした。
戦後は通信機器の技術を生かして、コンピューター製造と動かすためのソフトウェアの開発にまい進していました。
その後、日本でもコンピュータの爆発的な普及により、打倒NECを目指して開発した『FMV』シリーズが大ヒットし、一般消費者向け製品へも進出を果たしました。

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現在は、得意のIT、コンピュータ技術を生かして顧客の課題解決を図る、ソリューションビジネスを軸に躍進を続けています。
株式会社東芝 創業:1903年(明治37年)
富士通の項でNECと両社併せて、『パソコン業界の双璧』と評しましたが、この表現にもっとも異議を唱えるのは、この会社かもしれません。
日本パソコン業界の『御三家』、『ダイナブック』でお馴染みの東芝さんです。
人呼んで『からくり儀右衛門』 創業者は寛政生まれのからくり名人
幕末に生まれ、自身で考案したからくり人形が興行で評判となり、『からくり儀右衛門』と呼ばれた程のからくり名人です。
その後は自動で油が補給される灯火『無尽灯』、和時計の最高傑作と言われるぜんまい仕掛けの『万年時計』などを製作しました。
後年は国産発の蒸気船の開発などにも関わりながら、東芝の前身にあたる『田中製作所』を設立しています。この田中製作所が、のちに芝浦に拠点を移し『芝浦製作所』と改名しました。
現在では、マンガ『JIN-仁-』(村上ともか作)の登場人物としても知られています。
幕末にタイムスリップしてしまった現代の医師、南方仁に対して、現代風の医療器具の製造や、手術の際に照明となる『無尽灯』の提供を行っています。
国産初の白熱電球を作った『東京電気』と合併し東芝へ
この芝浦製作所が、当時国産初の白熱電球の開発を行った『東京電気』と合併して『東京芝浦製作所』となったのが、社名『東芝』の由来です。
ですので祖業の一つともいえる白熱電球は、松下(現パナソニック)と共に世界を席巻し、現在もLED電球を製造、販売しています。
また、戦後に財閥解体が行われた際に、傘下の一部を『西芝電機』『北芝電機』として分離しました。現在は両社とも東芝グループ企業の一員です。
ちなみに南芝がないのは“芝浦の南は海だから”と冗談のような話もあったりします。
パソコンを持ち運び可能にした『dynabook』シリーズ
そして、忘れてはならないのが、東芝が世界で始めて持ち運び可能にしたノート型パソコン『dynabook』シリーズです。
※当初は『ラップトップ(膝の上)パソコンと呼ばれています。
東芝初のラップトップ型PC T-1000
ダイナブックの名を冠して発売されたJ-3100
自社で開発したこの小型パソコンを世界向けに出荷し、東芝は80~90年代のノートパソコン市場で世界一位に君臨し続けました。
最後に
日本メーカーの社名の由来を追いながら、国内家電製品群における『PC御三家』を、紹介していきましたが、いかがだったでしょうか?
共通点は、『明治維新』と共に出発した近代化の立役者である事。
そして、当時の世界の潮流は『情報機器』産業にあり、当時世界をリードしていた米国に留学又は渡米した人々が、100年後の日本の基幹産業の基礎を作り出している事には敬服の至りです。
現在は、彼らの造り上げてきた情報通信網が、国境と言う名のボーダーを乗り越える術を与えてくれています。
次の100年を作る技術は何なのか、これからが楽しみですね。